
プラダを着た悪魔と悪魔ではない専門医

有本 博英 矯正歯科医
2026.05.12
映画『プラダを着た悪魔2』が話題ですね。前作に続いて、華やかなファッション業界でのミランダ(メリル=ストリープ)とアンディ(アン=ハサウェイ)の物語が描かれています。
でも今回は、オリジナルの2006年版のエピソードから。
主人公のアンディは、名門ファッション誌『ランウェイ』のカリスマ鬼編集長ミランダのアシスタントとして働き始めます。アンディは優秀で、真面目で、文章を書く力もある。けれど、ファッションの世界にはそんなに関心がありません。むしろ、心のどこかで軽く見ている。
「服なんて、しょせん服でしょう?」
「私は、もっと本質的な仕事をしたい」
そんな空気をまとっています。
ある日、編集部でスタッフたちは、あるドレスに合わせるベルトを選んでいます。二本のベルトが並べられ、どちらがよいかを真剣に議論している。けれど、アンディにはその二本がほとんど同じに見えて、思わず苦笑してしまうのです。
ミランダが、それを見逃すはずがありません。
「何かおかしい?」
アンディは慌てて弁解します。悪気はなかった。ただ、自分にはその二つのベルトが同じに見えた。まだこの世界のことを学んでいる途中で、”こんなの”はよく分からない、と。
その瞬間、ミランダの表情が変わります。
“こんなの?”
そして、アンディが何気なく着ている青いセーターに目を向ける。
あなたには関係ないと思ってるのね。あなたはクローゼットから、そのいかにも冴えない”ブルーのセーター”を選んだ。”自分は着るものなんか氣にしない。マジメな人間”ということね。
でも、あなたは知らないでしょう。その色はブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない“セルリアン” よ。
それにこの事実も知らないでしょうけど、2002年にオスカー=デ=ラ=レンタがその色のソワレを発表して、確か、イブ=サン=ローランがミリタリージャケットを発表した。
セルリアンはたちまち8人のデザイナーのコレクションに登場、その後次第に市場に出て、国中のデパートで販売。そして徐々にそこらの安っぽいカジュアル服の店にも出回り、それをあなたがセールで購入した。そのブルーは巨大市場と無数の労働の象徴よ。
でも、とても皮肉ね。ファッションと無関係と思って選んだセーターは、そもそもここにいる私たちが選んだのよ。“こんなの”の山からね。
この場面、ミランダのアンディに対する叱り方が怖いのではありません。
本当に怖いのは、アンディが「自分の選択」だと思っていたものが、実はすでに誰かによって選ばれていた流れの末端だった、ということです。
アンディは、ファッションから自由でいるつもりだった。 でも実際には、ファッションの外に立っていたのではない。ファッションの流れの中にいながら、その流れが見えていなかっただけだった。
私は矯正歯科医として、この場面を見るたびに、多くの患者さんが言う言葉を思い浮かべます。
「前歯だけ少し並んだらいいんです。女優になるわけじゃないんで」
気持ちは分かります。(ミランダじゃないので)
鏡で見るのは前歯です。 写真に写るのも前歯です。 笑ったときに見えるのも前歯です。 SNSで気になるのも前歯です。
だから、「奥歯までは必要ないです」「見えるところだけでいいです」「前歯だけ短期間で整えたいです」「高額な治療まではいりません」という希望は、とても自然なものです。
でも、その「前歯だけでいい」は、どこから来たのでしょうか。
Instagram のビフォーアフター。 TikTok の短い動画。 AIで整えられた顔。 美容医療の中で語られる、即効性のある見た目の改善。 セラミックで歯の形と色を一気に変える価値観。 そして、「短期間」「低価格」「目立たない」「前歯だけ」という多くの広告。
それらが毎日のように目に入り、いつの間にか、こう思うようになる。
「歯並びは、見える前歯がきれいならいい」 「矯正は、なるべく早く安く済ませられるところで十分」 「奥歯や咬み合わせは、見えないし、特に不自由していないし」 「私は、前歯を少し整えたいだけ」
その言葉は本当に「あなたの選択」でしょうか。
いま、前歯だけの矯正や低価格のマウスピース矯正は、非常に分かりやすい商品として広がっています。たとえば、上下前歯12本や上下前歯24本を対象にしたOh my teethのプランは、患者さんのニーズをよく捉えています。
全体矯正までは考えていない。 でも、前歯の少しのズレは気になる。 結婚式、面接、写真撮影、人前で話す機会の前に、見えるところだけ整えたい。
そういう気持ちは、よく分かります。
そして、前歯だけの矯正がすべて悪いわけではありません。軽い後戻り、わずかな空隙、数本の小さな傾きなど、部分矯正が合理的なケースは確かにあります。
問題は、「前歯だけ」という言葉が、あまりにも簡単に聞こえすぎることです。
ミランダは、アンディの青いセーターを見て、そこにファッション業界全体の流れを見抜いていました。
矯正歯科医は、患者さんの前歯を見て、そこに口腔全体の構造を見ています。
患者さんは「前だけ治したい」と言う。 でも専門医は、その前歯がなぜその位置にあるのかを診ます。
スペースが足りないのか。 奥歯の位置が悪いのか。 上下の顎関係のズレなのか。 舌や唇の力なのか。 歯周組織に余裕があるのか。 歯根を安全な範囲で動かせるのか。 前歯だけ動かしたら、咬み合わせはどうなるのか。 治療後に安定するのか。 後戻りしたときに、どうするのか。
こうしたことを見ずに、ただ「見えるところだけ」を動かすと、矯正治療は医療ではなく、単なる見た目の加工なってしまいます。
前歯だけでよい場合は、前歯だけでよいと判断します。 でも、前歯だけではいけない場合の方がはるかに多い。
そのときに「いけない」と言えることが、専門医の仕事です。 そして、その理由を分かる言葉で説明することが、専門医の責任です。
問題は、装置ではありません。マウスピースか、ワイヤーか。 部分矯正か、全体矯正か。 それは手段の話です。
本当に大切なのは、診断であり、治療設計です。 その治療が、その人の顔と口腔と人生に合っているかどうかを、きちんと見極める必要があります。
だから、もし私がミランダのように少し意地悪く言うなら、こうなります。
「その“前歯だけでいい”という言葉。あなたは、自分で選んだと思っている。けれど、その考えは、SNSの症例写真、低価格でできるという広告、AIで整えられた顔、美容医療の即効性、そして“見えるところだけ整えばいい”という時代の空気の中で、あなたのところまで降りてきた。
あなたは、本格的な矯正治療なんていいから、治したいところだけを治すという自由な選択をしたつもりでいる。でも実際には、誰かが作った耳障りのいい言葉を、あなた自身の希望だと思って選択しようとしていないか?
その前歯は、なぜその位置にあるのか。前歯の位置付けを決めているのは奥歯で、成長とともにゆっくりと影響する。そして、その奥歯の影響は今後も一生続く。奥歯を治さずに、前歯だけ少し並べても、本質的な解決にはならないことがある。その影響は、10年後、20年後に見えてくる。」
少し強い言い方かもしれません。
でも、これは患者さんを否定したいからではありません。むしろ逆です。
私は、患者さんに本当の意味で自分で選んでほしいのです。
広告に選ばされるのではなく。 SNSに選ばされるのではなく。 価格だけに選ばされるのではなく。 「前歯だけ」という分かりやすい言葉に選ばされるのではなく。
自分の顔、自分の咬み合わせ、自分の将来、自分の美しさに合った治療を、自分で選んでほしい。
そのためには、まず知らなければなりません。
前歯だけに見える悩みの原因は奥歯の問題であることが多い。 短期間でできる治療には、短期間でできる理由と限界がある。 安い治療には、安いなりの理由がある。 マウスピースが向く症例と、ワイヤーが向く症例がある。 前歯をきれいに並べることと、よい矯正治療は、同じではない。
人間の口元は、そんなに単純ではありません。
矯正歯科が扱う美は、単にまっすぐ並んだ歯ではありません。
その人の顔に合うこと。 顔面の筋肉と調和すること。 横顔と矛盾しないこと。 咬み合わせを壊さないこと。 歯ぐきや骨と調和していること。 清掃しやすいこと。 年齢を重ねても破綻しにくいこと。 治療が終わった後も、その人が安心して笑い続けられること。
それが、矯正歯科が本来扱う美です。
人が笑い、話し、噛み、年齢を重ね、自分の顔と付き合っていく。 その未来のために、歯をどこへ、どのように動かすのかを考える。
その答えを、専門医ならではの知見と経験を通して、患者さんと一緒に考えるところから、本当の矯正治療は始まるのだと思います。
『プラダを着た悪魔』は、アンディがファッション業界の本質を学びながら成長する物語でした。
矯正治療も、患者さんが歯並びと美しさの本質を知り、自分に合った選択をするための場でありたいと思います。もちろん、矯正歯科医は悪魔ではないので、ミランダみたいな意地悪はしませんのでご安心を(笑)。
歯は、あなたが一生身に纏うジュエリーですから。
最後にこの有名なシーンを。